「ベィリーさんを偲んで」瞬生画廊 藤田士朗
みゆき画廊初期の頃 あの人の電話の始まりは何時もこうだった。「モシモシ、澄江です。今宜しい?」。その尻上がりのトーンは何時も明るく軽やかだった。そして展覧会を見に来いとか昼食やお茶の誘いが続くのだが、先約があったり来客中で直ぐに行けないと言えば、時間があき次第みゆき画廊に回ってくれと言う。食事、お茶などはあの人なりの気遣いで、行けば必ず何か用事が待っていた。 みゆき画廊はベイリーさんの父君・加賀谷小太氏の創立だが、この人は当時財界の総理と言われた石坂泰三氏のブレーンの一人で、共同建物会社の社長・会長として数寄屋橋交差点の東芝ビルや西銀座地下駐車場等を作った人だ。また東芝ビルの最上階にセントラル美術館を作るなどの美術好きであり、当時僕がいたフォルム画廊の創立者・福島繁太郎の熱海の土地の一部を買って別荘を造るなどした関係からフォルム画廊の顧客の一人でもあった。だからみゆき画廊のある第2東芝ビルを作る時から相談は受けていたのだが、ベイリーさんがその経営にあたることになって始動した。 あの人は最初から貸画廊に徹して画商活動はしないと言っていた。また申し込みがあっても気に入らなければ受け付けないから経営的には大変だった。それを父君のコレクション展やら気に入った大家の企画展で凌ぎ、我慢して新人画家の登竜門画廊としての地位に迄高めて行く。そこにはこの人の確固とした美意識に加えて、自己を飾らない率直な人柄と何時の間にか相手を引きつける魅力があったからだと思う。 1966年から始めた香月泰男展も、最初は父君のコレクションにフォルム画廊で何点か補充したが、翌年から画家はみゆき画廊のために小品20点余を描いて最晩年迄続けた。また僕が関係した大沼映夫、佐々木豊、平賀敬、渡辺恂三氏の「ドロッとしたものをカラッと描く」展も天沼憲一郎、加賀美勣、久保田裕、横地洋司氏の「D’ici」展も会場がみゆき画廊だからこそ十年近くも続けられたのであり、画廊での画家との語らいの中心に何時もベイリーさんの笑顔があった。