「ベィリーさん」 淀井 彩子

左から:ベィリーさん 大沢昌助さん 淀井さん 

.

.

ベィリーさんは、私が画家として生きることをさりげなく

応援してくれた人だと思っています。

学生時代のグループ展以来のおつきあいですが、留学から帰国後、

最初の個展をみゆき画廊で開催して以来、縁あって2011年の今回の個展まで、

この画廊とは私の画家としての人生・時間とだぶっていると言えます。

ベィリーさんと個人的な深い付き合いは少ないのですが、

大沢昌助さんと同じように、絵を描きつづける私という存在を

そのまま受け止めてくれた人の1人だと感じています。

ずっと後になって、画廊からの帰りの道でベイリーさんが

「私って、今まであまりに素っ気なくやりすぎたかしら?」と唐突に言いました。

「えー、それがベィリーさんらしいやり方だったのでしょ。

私はそういうところが好きなんですけど」と答え、

「今頃ね—」と笑い合ったことを思い出します。

.

2011.1.10  淀井彩子

.

.

〈淀井 彩子  略歴〉

1943 東京生まれ
1966 東京芸術大学美術学部油学科卒業
1968 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了
パリ国立美術学校留学 フランス政府給費留学生 (70年まで)
現在 青山学院女子短期大学芸術学科 教授


牛尾の思い出 4

ベィリーさんが作ったDM

ベィリーさんが作ったDM

ベィリーさんと一緒に仕事をして楽しかった事のもう一つは案内状作りです。

何に対してもこだわりがあるので内容も大切ですが…ベィリーさんにとっては見た目が美しいかどうかがとても重要です。

今のようにパソコンもなく、イラストレーターなる便利なソフトもない時代に案内状作りはコピーと切り貼りで原稿をつくり苦労しました。

幸いに私は、切ったり貼ったりする事が大好きでしたのでベィリーさんの注文を次から次に形にしました。

苦労を重ねて完成!

明日は印刷屋さんへ出しましょうと家へ帰り、次の朝、印刷屋さんに連絡を取ろうとすると、まじまじその原稿をながめて「なんだかこれ美しくないわねぇ」と言い出します。

この言葉はもう一度最初からやりましょうと言う意味で、またもう一度案内状の案をねります。

最終納得がいくまでだいぶ時間がかかるのですが、出来上がったDMは今みても洒落ているなぁと思います。

「案内状は大切よ!受け取った人がそのハガキだけでも飾りたいと思うようでないとこの一枚で展覧会に行こうとは思わないわよね」と言い放っていました。

私はもっと他に沢山やる仕事があるのにもかかわらず、案内状作りが始まるとウキウキしたものです。

「ベイリーさんのブーツ」 横山 智子

横山智子さん

気象庁始まって以来の記録的な暑さを更新した今年の夏、短パンとTシャツ、そして首巻き

タオルという出で立ちで製作するのがすっかり板に付いてしまった私でも、秋になったら

履きたいと思っている、とっておきのブーツが有る。深いワインレッドのそのショートブーツ

は、十数年前にベイリーさんから頂いたものだ。

凛とした美しさのベイリーさんは、おしゃれ上手な方だった。

アーティストの手作りアクセサリーを粋に、またカラフルなスカーフを上品に纏われていた。

そんなベイリーさんも靴には苦労しておられたようだ。お仕事柄立ちっぱなしの事が多く、

かといってスニーカーのようなラフな靴を画廊で履く訳にもいかず、デザインが気に入って

買ったものの、殆ど履いていないタンスの肥やしになってしまっている靴が沢山有ると

伺った。背格好の似ていた私に、ベイリーさんは数年前イタリアで気に入って買って来たが、

ヒールが高すぎて履いてないショートブーツが有るが履いてみないかと尋ねて来られた。

勿論、おしゃれなベイリーさんのブーツ、欲しいに決まっている!とは言え靴はサイズが

合わなければどうにもならない。翌日ベイリーさんに、その靴を画廊に持ってきて頂く

事になった。

次の朝、箱から出てきたそのブーツはつやつやと輝き、程よく先が尖っていて

7センチくらいのヒールの高さがあった。おそるおそる履いてみると、皮は柔らかく、

ヒールもしっかりしているため安定感が有り、私の足にぴったりだった。

あれから長い年月が流れたが、毎年涼しくなって来るとそのブーツは私の足もとを

上品に華やかに飾ってくれる。

今年もそろそろおしゃれしてあのブーツを履き、みゆき画廊に行ってみようと思っている。

優しく厳しかったベイリーさんとそっくりの牛尾さんの笑顔と、数々のベイリーさんの

言霊達に会いに。

[ 横山智子 略歴 ]

1988年  創形美術学校版画科卒業(創形賞一席)

1989年  創形美術学校研究科版画課程修了

1989年  みゆき画廊 個展( ’91 ’93 ’01 ’04 )

1995年  平成7年度 文化庁国内研修員

その他、個展/グループ展  多数

牛尾の思い出 3

ベィリーさん

ベィリーさん

ベィリーさんと一緒に仕事をして楽しかった事がいくつかあります。

そのひとつが作品の飾り付けです。

土曜日の夕方から始まりますが、毎週この日は私の楽しみのひとつでした。

作家が搬入して来た作品をどのように飾り付けるか、思案するのです。

絵を描いたご本人は大概、その搬入までに自分の絵を仕上げる事に全勢力を

使って来られるので、なかなか冷静に飾り付けができません。

ベィリーさんは始めは静かに見守っていますが、つかつかと絵の前に歩み寄って

「この絵、あっちの壁面がいいのじゃない?」と言ってぐるっと画廊内を見渡すと、

「こちらの絵は入り口の方かしら」ともう一点の絵を指差します。

その度に私が言われたところに絵を移動させて行くと、なんだか沈んだ感じに

見えていた作品がだんだんものを言って来るように感じてきます。

そしてまたかつかつ歩いて違う絵の前でじっと見ていたかと思うと、

「この絵、よくないわね!」とはっきり言って、作家を驚かせます。

作家も普通はそんな事を言われると、自分を否定されたように感じると

思うのですが…

ベィリーさんの一言は魔法のようで、作家自身も作品がよくないと事を認めて、

この作品は外しましょうかと言う事になり、展示が済んだ画廊内を見渡すと

なるほど、何かひとつの統一感が訴える力になっていて、その瞬間がたまらなく

私は好きでした。

時にはベィリーさんでさえ、迷う飾り付けもありました。

それでも、全く慌てません。

「こういう時はトライアンドエラーよ」と言い、何度も掛け替えます。

同じ作品でも光を放つ場所とそうでない場所が必ず在ることも

トライアンドエラーで学びました。

毎回飾り付けをしていると、作品の良し悪しに限らず、作家が描いたと言う

息づかいを感じます。そして、それを観にいらした人達に伝えてあげる使命を

画廊は担っているのだと思いました。

今はベィリーさんと一緒にした飾り付けを思い出しながら、私がしています。

私には「この絵よくないわよ」と言う魔法は使えないので、

「どうかこの絵が飾られたくないと言いますように」とおまじないを使っています。

「ベィリーさんを偲んで」瞬生画廊 藤田士朗

ベィリーさんとお父様

みゆき画廊初期の頃

あの人の電話の始まりは何時もこうだった。「モシモシ、澄江です。今宜しい?」。その尻上がりのトーンは何時も明るく軽やかだった。そして展覧会を見に来いとか昼食やお茶の誘いが続くのだが、先約があったり来客中で直ぐに行けないと言えば、時間があき次第みゆき画廊に回ってくれと言う。食事、お茶などはあの人なりの気遣いで、行けば必ず何か用事が待っていた。

みゆき画廊はベイリーさんの父君・加賀谷小太氏の創立だが、この人は当時財界の総理と言われた石坂泰三氏のブレーンの一人で、共同建物会社の社長・会長として数寄屋橋交差点の東芝ビルや西銀座地下駐車場等を作った人だ。また東芝ビルの最上階にセントラル美術館を作るなどの美術好きであり、当時僕がいたフォルム画廊の創立者・福島繁太郎の熱海の土地の一部を買って別荘を造るなどした関係からフォルム画廊の顧客の一人でもあった。だからみゆき画廊のある第2東芝ビルを作る時から相談は受けていたのだが、ベイリーさんがその経営にあたることになって始動した。

あの人は最初から貸画廊に徹して画商活動はしないと言っていた。また申し込みがあっても気に入らなければ受け付けないから経営的には大変だった。それを父君のコレクション展やら気に入った大家の企画展で凌ぎ、我慢して新人画家の登竜門画廊としての地位に迄高めて行く。そこにはこの人の確固とした美意識に加えて、自己を飾らない率直な人柄と何時の間にか相手を引きつける魅力があったからだと思う。

1966年から始めた香月泰男展も、最初は父君のコレクションにフォルム画廊で何点か補充したが、翌年から画家はみゆき画廊のために小品20点余を描いて最晩年迄続けた。また僕が関係した大沼映夫、佐々木豊、平賀敬、渡辺恂三氏の「ドロッとしたものをカラッと描く」展も天沼憲一郎、加賀美、久保田裕、横地洋司氏の「D’ici」展も会場がみゆき画廊だからこそ十年近くも続けられたのであり、画廊での画家との語らいの中心に何時もベイリーさんの笑顔があった。

牛尾の思い出 2

ベィリーさんはアメリカ人の奥さんだったのですから当然英語が話せました。

 

外国のお友達も多く、よく異国の人が画廊に訪ねて来て、

あまり上手にしゃべれない私はアタフタしながら精一杯の英語でもてなすと、

「どうもありがとう」と流暢な日本語で答えられたりして、

赤面する事も度々ありました。

 

ベィリーさんの英語は外国人の方と違い単語と単語をつなげて話さないので

わかりやすく、とても勉強になりました。

聞いていると、そうか、こんな時はそう言えばいいのだと言う事が良く解り、

覚えている内にまたあのアメリカ人こないかなぁ等と思ったこともあります。

 

ある日電車の中で映画サウンドオブミュージックの話になったとき、

「あなたドレミの歌を歌える?」と聞かれたので、日本語で歌ってみせたら、

「英語で歌えないの?」とけげんな顔で見つめられ、

「私が教えてあげる」と、電車の中なのに

ベィリーさんが歌った後をわたしが真似して歌うと言う具合に、

特訓がはじまりました。

駅に着くまで20分くらいでしたが、あまりにベィリーさんが熱心に教えてくれるので、この歌を歌えないのは恥ずかしいのかもしれないと思い必死で覚えました。

おかげで英語でドレミの歌が歌えるようになりました。

 

その電車車両には意外に大勢の人が乗っていましたので、

静かには歌いましたが、同じ車両の方達は私達を変な女性達と思ったかもしれません。

今でも、映画サウンドオブミュージックがテレビでやっていたりすると、

一緒に歌って、ベィリーさんを思い出します。

 

これは補足ですが…ドレミの歌は日本語と英語ではまったく内容が違います。

 

一度映画を観てみて下さい。

「ベィリーさんという友人」笠間達男

 今、机上にあるのは、ある時、ベィリーさんが、「これ差し上げるわ」

とくれた「少女」と題する直径65ミリの銅のメダルである。

 作者は舟越保武で、1987年に普連土学園創立百周年記念に作られたものである。

ベィリーさんが舟越さんに制作を依頼したというそれは確か舟越桂の彫刻を話題

にした直後のことだった。私は普連土学園の教育に興味があったので、私と同じ

世代の戦争中の学園の話を聞き、ベィリーさんの原点を理解したような気がした。

 私は好奇心の強い美術好きで二〇歳代から銀座界隈の画廊めぐりをしている内に、

幾つかの画廊と縁ができ、その中に「みゆき画廊」があった。

ベィリーさんとの会話は「いいねー」などの簡単な

感想を述べるだけのことが多かったが、私でも手が出せる版画などを買うことも

あった。しかし、思い出してみても、ベィリーさんから購入を勧められたことは

ない。私はコレクターではなく、生活を潤す道具として美術品を購入する。

私は人付き合いはあまりしない質だが、ベィリーさんを心を許す女友達だと

思っていた。

私はベィリーさんの亡くなった年につれあいを亡くした。

ベィリーさんの追悼の最初の催しで購入した「INORI」という瀧 徹さんの

小さな彫刻が仏壇の前にある。そこで、彼女らの冥福を祈りながら般若心経を

書くのが私の日課となっている。

 

笠間達男 

1927年生まれ/元都立芸術高校校長/教育に関する著書多数

牛尾の思い出 1

ベィリーさん2

 

 

ベィリーさんの事を書いてくれる方を募集中ですが、なかなか現れません

ので、今回も牛尾が書く事にします。

 

「ベィリーさんは生まれたときからベィリーさんみたいに可愛いかった」

と野見山暁冶さんが、著書アトリエ日記に書いていますが、

本当に可愛い人だったんです。

 

おおきな目に、マッチ棒が二本は乗りそうな長いまつげ、

決して鼻は高くないのですが…

初めて会った時に「こちらがベィリーさんです」と紹介されましたので、

外国人だと思い込んでいました。

 

それに、その可愛らしい顔に似合わずきりりとした身のこなし、歯に絹着

せないストレートな発言は異国の人のように思えました。

 

いえ、半分はアメリカ人だったかもしれません。

それと言うのもジャック・ベィリーさんと結婚し、結局離婚する事にはな

りましたが、亡くなるまでアメリカ国籍のままでしたから…

 

そんなモダンなベイリーさんが、お相撲が大好きと知った時は意外な感じ

でした。

とにかく好きなんです。

毎晩相撲ダイジェストを欠かさず観ていました。

どの関取の事も詳しく、今生きていれば相撲審議会に参加できたかもしれ

ません。

 

ひとつ相撲にまつわる思い出がありますのでご紹介します。

 

画廊が終わった後、画家の野見山暁冶さんのアトリエでそのお弟子さん達

との集まりがあり、少し遅れて行くとテレビで相撲ダイジェストが始まっ

たそうです。

ベイリーさんがお相撲を好きなことを野見山さんがご存知だったのか、

全ての取り組みの勝敗を当てたら野見山作品油彩画の小品をプレゼント

しようと言うことになったそうです。

そこの場所へ行くまでは画廊で仕事をしていましたので、もちろん、

大相撲中継を生で見られるはずはありません。

けれど、ベイリーさんは全ての取り組みを当ててしまったらしいのです。

 

プレゼントされた作品を見る度に、ベィリーさんは笑顔でその話をして

くれました。

その作品はとてもいい作品でしたので、取り組みを全部当てた事よりも

それをプレゼントされた事の方が嬉しかったのかもしれません。

ごあいさつ

ベィリーさん

みゆき画廊では今日からベィリーへのオマージュ展が始まりました。

6年前に亡くなったベィリーさんとの思い出を持っていてくださる

100名を超える作家の方々が出品してくださっています。

これを機にベィリーさんの事をこのコーナーで少しずつ

お話ししようかと思います。

 

とは言っても私が初めてベィリーさんに会ったのは26年前の事です。

 

みゆき画廊は今年で44年になるのですから、

画廊が出来た頃のベイリーさんの事は本人から聞いた事しか知りません。

 

ベィリーさんは多くの方々に愛された人ですので、

もし、ベィリーさんとの思い出をこのブログに書いてもいいと

言ってくださる方がいらしたら、みゆき画廊までご一報いただけると

嬉しく思います。

info@miyuki-gallery.com

 

ところで…

ベィリーさんって誰?と思って居る方の為に少し説明をしますと、、

 

ベィリーさんはみゆき画廊の創始者です。

初めは東芝ビルの経営でしたが、5年の後に独立しました。

本名は加賀谷澄江といいますが画廊を始めた頃は

ベィリーさんというアメリカの人の奥さんだったので

ベィリー澄江さんの頃の名前を皆さんが

ニックネームのように使っていらっしゃるという訳です。

 

……と書いている私は、

26年前にみゆき画廊に入社し、今もなおここで働いている

牛尾京美と申します。

あまりにも長く一緒にいたという事もあり、

ベィリーさんが病気になってからみゆき画廊を任される事になりました。

亡くなった今も任され続けています。

どうぞ宜しくお願いします。