牛尾の思い出8

ベイリーさんは花や木を育てる事が上手でした。
マンションのバルコニーで色々な花を育てていて、毎朝手入れをしているのだとか言っていました。みゆき画廊で作家がお祝いに、いただいた蘭の花を、展覧会後にもてあましていると「私が持って帰るわ」と言ってタクシーで持ち帰っていました。もうかなり花を落とした蘭を次の年には必ずと言っていいほど、きれいな花を咲かせる技は驚きです。
「蘭が咲いたからうちへ来る?」と夕食を誘っていただいた事が何度もありました。
「あまり過保護にしてはダメなのよ!ほどほどがいいの。」と言って、「犬もね過保護にしちゃダメね、厳しくする事もないとね。私、犬を育てるのも上手よ。」と、得意顔で話してくれました。
そう思えば、私もほどほどに厳しく、決して過保護でなく育てていただいて感謝していますよベイリーさん

牛尾の思い出7

ベイリーさんが亡くなった時、私の息子はまだ5歳でした。もっと小さい頃からベイリ〜しゃんベイリ〜しゃんと言っていた息子はよくお行儀をベイリーさんに注意され、その度神妙な顔で「はいっ」と返事をしていたのを思い出します。それでもクリスマスになるとプレゼントを買ってくれるベイリ〜しゃんは大好きで、クリスマスが近づくとベイリーさんの所へいきたがりました。
ある日息子が私にどうして母さんはベイリーさんに丁寧な言葉を使うのか?と質問されて驚きました。そういえば、ベイリーさんと同じ年頃の自分の母や主人の母に、もっとフランクに話しているなあと気づかされました。でもどう言う風に伝えたら良いかよくわからず、ベイリーさんはね、母さんが働いている画廊の社長さんでお給料をくれる人なんだよと話してみましたら子供心に何だか大切な人なのだと思ったのか、次に会う時からとてもお行儀がよくなりました。
そしてベイリ〜しゃんお布団かけてあげますよとお世話している息子に「あら今日は優しいのね」と微笑ましく接してくれるベイリーさんでした。
ベイリーさんが亡くなった時、私は画廊は閉めるつもりでしたが、息子が「ベイリ〜しゃんが悲しいって泣いちゃうよ、僕も頑張るから母さんも頑張って」と言ってくれました。

奥の事務所で

牛尾の思い出 6

私も虫が嫌いですが、それ以上にベイリーさんも虫が嫌い。
私も嫌いだと伝えているのに、虫が出ると「牛尾さ〜ん、早く早く」と必ず呼ばれます。
ゴキブリが身動きせずにすぐそこに現れると、「あなた、新聞紙で打って」と私に新聞紙を握らせます。もうおびえているベイリーさんを見るとわたしが虫は嫌いなんて事は言っていられません。勇気を出して追いかけます。打ち損なってゴキブリが走り回るとふたりでキャーキャー言って女学生の様。

「活エビが送られて来たのよ…」と帰り道不安そうに言って、「あなたエビがさばける?」と言う問いにさばけないと言ったのに、うちに寄っていかないかと誘われて嫌嫌、生きてるエビをおが屑の中から取り出してみたものの…あの沢山はえてる足がムニョムニョしているのを見て、ふたりでまたキャーキャー言って、、結局階下の仲良し猿谷さんを呼んで全てやってもらった思い出。
このくらいの事出来なくちゃ主婦失格と猿谷さんに言われたのですが、未だに生きてるエビは触れないのです。

牛尾の思い出 5

よく、ベィリーさんに夕食を誘われました。

夕方デパ地下へ出かけた折りに、美味しそうなステーキが

安売りしていると、決まって「うちこない?」とお誘い下さいます。

「塩と胡椒で焼いたステーキが好きなの、フランス料理で出てくる

のはあまいソースかかってるでしょう」と、フライパンでジュジュ

と焼いて、付け合わせにジャガイモやらサヤインゲンやらをのせたら

ワインで乾杯!

ベィリーさんはあまりお酒が強い訳ではないのですが、私が呑めると

知ってらして、貴方が飲めれば、新しいのを開ける?

と言ってくださるので、もちろん飲めますとお酒好きなわたしは

即答します。

その頃は、あまり酔ったと思う事が少なく、かえってベィリーさんに

心配される場面も多かったですねぇ

私が妊娠中は特に「飲んではダメよ!」と、何度も言って

くださいました。

こんな酒好きもつわりには勝てませんでしたし、何かお腹に

子供がいると思うと、守らなくてはと言う使命感が湧いてきて、

私にしては優秀にも、断乳するまで一滴も飲みませんでした。

その様子を見て、ベィリーさんは、「あなたやろうと思ったら、

お酒やめられるじゃない、」

誉めてくれたのか、やめられるくらいならもうそんなに飲むなと

言うことなのか、結局わからないままになってしまいました。

おかげで、今も相変わらず毎日飲んでいます。

「ベィリーさん」 淀井 彩子

左から:ベィリーさん 大沢昌助さん 淀井さん 

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ベィリーさんは、私が画家として生きることをさりげなく

応援してくれた人だと思っています。

学生時代のグループ展以来のおつきあいですが、留学から帰国後、

最初の個展をみゆき画廊で開催して以来、縁あって2011年の今回の個展まで、

この画廊とは私の画家としての人生・時間とだぶっていると言えます。

ベィリーさんと個人的な深い付き合いは少ないのですが、

大沢昌助さんと同じように、絵を描きつづける私という存在を

そのまま受け止めてくれた人の1人だと感じています。

ずっと後になって、画廊からの帰りの道でベイリーさんが

「私って、今まであまりに素っ気なくやりすぎたかしら?」と唐突に言いました。

「えー、それがベィリーさんらしいやり方だったのでしょ。

私はそういうところが好きなんですけど」と答え、

「今頃ね—」と笑い合ったことを思い出します。

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2011.1.10  淀井彩子

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〈淀井 彩子  略歴〉

1943 東京生まれ
1966 東京芸術大学美術学部油学科卒業
1968 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了
パリ国立美術学校留学 フランス政府給費留学生 (70年まで)
現在 青山学院女子短期大学芸術学科 教授


牛尾の思い出 4

ベィリーさんが作ったDM

ベィリーさんが作ったDM

ベィリーさんと一緒に仕事をして楽しかった事のもう一つは案内状作りです。

何に対してもこだわりがあるので内容も大切ですが…ベィリーさんにとっては見た目が美しいかどうかがとても重要です。

今のようにパソコンもなく、イラストレーターなる便利なソフトもない時代に案内状作りはコピーと切り貼りで原稿をつくり苦労しました。

幸いに私は、切ったり貼ったりする事が大好きでしたのでベィリーさんの注文を次から次に形にしました。

苦労を重ねて完成!

明日は印刷屋さんへ出しましょうと家へ帰り、次の朝、印刷屋さんに連絡を取ろうとすると、まじまじその原稿をながめて「なんだかこれ美しくないわねぇ」と言い出します。

この言葉はもう一度最初からやりましょうと言う意味で、またもう一度案内状の案をねります。

最終納得がいくまでだいぶ時間がかかるのですが、出来上がったDMは今みても洒落ているなぁと思います。

「案内状は大切よ!受け取った人がそのハガキだけでも飾りたいと思うようでないとこの一枚で展覧会に行こうとは思わないわよね」と言い放っていました。

私はもっと他に沢山やる仕事があるのにもかかわらず、案内状作りが始まるとウキウキしたものです。

「ベイリーさんのブーツ」 横山 智子

横山智子さん

気象庁始まって以来の記録的な暑さを更新した今年の夏、短パンとTシャツ、そして首巻き

タオルという出で立ちで製作するのがすっかり板に付いてしまった私でも、秋になったら

履きたいと思っている、とっておきのブーツが有る。深いワインレッドのそのショートブーツ

は、十数年前にベイリーさんから頂いたものだ。

凛とした美しさのベイリーさんは、おしゃれ上手な方だった。

アーティストの手作りアクセサリーを粋に、またカラフルなスカーフを上品に纏われていた。

そんなベイリーさんも靴には苦労しておられたようだ。お仕事柄立ちっぱなしの事が多く、

かといってスニーカーのようなラフな靴を画廊で履く訳にもいかず、デザインが気に入って

買ったものの、殆ど履いていないタンスの肥やしになってしまっている靴が沢山有ると

伺った。背格好の似ていた私に、ベイリーさんは数年前イタリアで気に入って買って来たが、

ヒールが高すぎて履いてないショートブーツが有るが履いてみないかと尋ねて来られた。

勿論、おしゃれなベイリーさんのブーツ、欲しいに決まっている!とは言え靴はサイズが

合わなければどうにもならない。翌日ベイリーさんに、その靴を画廊に持ってきて頂く

事になった。

次の朝、箱から出てきたそのブーツはつやつやと輝き、程よく先が尖っていて

7センチくらいのヒールの高さがあった。おそるおそる履いてみると、皮は柔らかく、

ヒールもしっかりしているため安定感が有り、私の足にぴったりだった。

あれから長い年月が流れたが、毎年涼しくなって来るとそのブーツは私の足もとを

上品に華やかに飾ってくれる。

今年もそろそろおしゃれしてあのブーツを履き、みゆき画廊に行ってみようと思っている。

優しく厳しかったベイリーさんとそっくりの牛尾さんの笑顔と、数々のベイリーさんの

言霊達に会いに。

[ 横山智子 略歴 ]

1988年  創形美術学校版画科卒業(創形賞一席)

1989年  創形美術学校研究科版画課程修了

1989年  みゆき画廊 個展( ’91 ’93 ’01 ’04 )

1995年  平成7年度 文化庁国内研修員

その他、個展/グループ展  多数

牛尾の思い出 3

ベィリーさん

ベィリーさん

ベィリーさんと一緒に仕事をして楽しかった事がいくつかあります。

そのひとつが作品の飾り付けです。

土曜日の夕方から始まりますが、毎週この日は私の楽しみのひとつでした。

作家が搬入して来た作品をどのように飾り付けるか、思案するのです。

絵を描いたご本人は大概、その搬入までに自分の絵を仕上げる事に全勢力を

使って来られるので、なかなか冷静に飾り付けができません。

ベィリーさんは始めは静かに見守っていますが、つかつかと絵の前に歩み寄って

「この絵、あっちの壁面がいいのじゃない?」と言ってぐるっと画廊内を見渡すと、

「こちらの絵は入り口の方かしら」ともう一点の絵を指差します。

その度に私が言われたところに絵を移動させて行くと、なんだか沈んだ感じに

見えていた作品がだんだんものを言って来るように感じてきます。

そしてまたかつかつ歩いて違う絵の前でじっと見ていたかと思うと、

「この絵、よくないわね!」とはっきり言って、作家を驚かせます。

作家も普通はそんな事を言われると、自分を否定されたように感じると

思うのですが…

ベィリーさんの一言は魔法のようで、作家自身も作品がよくないと事を認めて、

この作品は外しましょうかと言う事になり、展示が済んだ画廊内を見渡すと

なるほど、何かひとつの統一感が訴える力になっていて、その瞬間がたまらなく

私は好きでした。

時にはベィリーさんでさえ、迷う飾り付けもありました。

それでも、全く慌てません。

「こういう時はトライアンドエラーよ」と言い、何度も掛け替えます。

同じ作品でも光を放つ場所とそうでない場所が必ず在ることも

トライアンドエラーで学びました。

毎回飾り付けをしていると、作品の良し悪しに限らず、作家が描いたと言う

息づかいを感じます。そして、それを観にいらした人達に伝えてあげる使命を

画廊は担っているのだと思いました。

今はベィリーさんと一緒にした飾り付けを思い出しながら、私がしています。

私には「この絵よくないわよ」と言う魔法は使えないので、

「どうかこの絵が飾られたくないと言いますように」とおまじないを使っています。

「ベィリーさんを偲んで」瞬生画廊 藤田士朗

ベィリーさんとお父様

みゆき画廊初期の頃

あの人の電話の始まりは何時もこうだった。「モシモシ、澄江です。今宜しい?」。その尻上がりのトーンは何時も明るく軽やかだった。そして展覧会を見に来いとか昼食やお茶の誘いが続くのだが、先約があったり来客中で直ぐに行けないと言えば、時間があき次第みゆき画廊に回ってくれと言う。食事、お茶などはあの人なりの気遣いで、行けば必ず何か用事が待っていた。

みゆき画廊はベイリーさんの父君・加賀谷小太氏の創立だが、この人は当時財界の総理と言われた石坂泰三氏のブレーンの一人で、共同建物会社の社長・会長として数寄屋橋交差点の東芝ビルや西銀座地下駐車場等を作った人だ。また東芝ビルの最上階にセントラル美術館を作るなどの美術好きであり、当時僕がいたフォルム画廊の創立者・福島繁太郎の熱海の土地の一部を買って別荘を造るなどした関係からフォルム画廊の顧客の一人でもあった。だからみゆき画廊のある第2東芝ビルを作る時から相談は受けていたのだが、ベイリーさんがその経営にあたることになって始動した。

あの人は最初から貸画廊に徹して画商活動はしないと言っていた。また申し込みがあっても気に入らなければ受け付けないから経営的には大変だった。それを父君のコレクション展やら気に入った大家の企画展で凌ぎ、我慢して新人画家の登竜門画廊としての地位に迄高めて行く。そこにはこの人の確固とした美意識に加えて、自己を飾らない率直な人柄と何時の間にか相手を引きつける魅力があったからだと思う。

1966年から始めた香月泰男展も、最初は父君のコレクションにフォルム画廊で何点か補充したが、翌年から画家はみゆき画廊のために小品20点余を描いて最晩年迄続けた。また僕が関係した大沼映夫、佐々木豊、平賀敬、渡辺恂三氏の「ドロッとしたものをカラッと描く」展も天沼憲一郎、加賀美、久保田裕、横地洋司氏の「D’ici」展も会場がみゆき画廊だからこそ十年近くも続けられたのであり、画廊での画家との語らいの中心に何時もベイリーさんの笑顔があった。

牛尾の思い出 2

ベィリーさんはアメリカ人の奥さんだったのですから当然英語が話せました。

 

外国のお友達も多く、よく異国の人が画廊に訪ねて来て、

あまり上手にしゃべれない私はアタフタしながら精一杯の英語でもてなすと、

「どうもありがとう」と流暢な日本語で答えられたりして、

赤面する事も度々ありました。

 

ベィリーさんの英語は外国人の方と違い単語と単語をつなげて話さないので

わかりやすく、とても勉強になりました。

聞いていると、そうか、こんな時はそう言えばいいのだと言う事が良く解り、

覚えている内にまたあのアメリカ人こないかなぁ等と思ったこともあります。

 

ある日電車の中で映画サウンドオブミュージックの話になったとき、

「あなたドレミの歌を歌える?」と聞かれたので、日本語で歌ってみせたら、

「英語で歌えないの?」とけげんな顔で見つめられ、

「私が教えてあげる」と、電車の中なのに

ベィリーさんが歌った後をわたしが真似して歌うと言う具合に、

特訓がはじまりました。

駅に着くまで20分くらいでしたが、あまりにベィリーさんが熱心に教えてくれるので、この歌を歌えないのは恥ずかしいのかもしれないと思い必死で覚えました。

おかげで英語でドレミの歌が歌えるようになりました。

 

その電車車両には意外に大勢の人が乗っていましたので、

静かには歌いましたが、同じ車両の方達は私達を変な女性達と思ったかもしれません。

今でも、映画サウンドオブミュージックがテレビでやっていたりすると、

一緒に歌って、ベィリーさんを思い出します。

 

これは補足ですが…ドレミの歌は日本語と英語ではまったく内容が違います。

 

一度映画を観てみて下さい。